Sunday 28 March 2010

24年前の諸国放浪(2) バルチモア、フィラデルフィア

なんで、バルチモアかって言うと、フランクフルトからフィラデルフィア直行便がなかったからで、なんで、フィラデルフィアかと言うと、当時、妹がフィラデルフィアにいたからです。

で、バルチモアからアムトラックで、フィラデルフィアにいくんだけど、空港から駅へのバスの乗り方がわからない。そもそも海外ってアナウンスってのがほとんどない。なので、一つ、アムトラックを乗り損ねて、次のに乗るんですが、次のが「2時間後」しかも、悪名高き編むトラックなので、さらに2時間遅れ。で、フィラデルフィアのセントラスステーションに着いたのは6時間後。結局、6時間遅れて、妹と合流。携帯電話とかないので、連絡の取りようがなかった。まぁ、いろいろ方法はあったと思うんだけど。

で、ここから記憶が曖昧なんだけど、MIT の Functional Programming Conference (発表無し:-p)と CMU に行ったはず。どっちが先か良く覚えてないです。アムトラックか飛行機だけど、どっちだろう? 確か、フィラデルフィアからNYに出て、ラガーディアからBostonそして、Pittsburg だったんじゃなかろうか。国内線は reconfirm は必要ないんですが、チケットがオープンだから、その辺りが面倒。ただし、当時は、国内線は、

 空港は荷物検査無し、止められることもなく飛行機へ

でした。アメリカは 911 まで、そうだったはず。

MITは、寮をConferenceのために公開してくれていて、例のΚΩに泊まりました。確か日本人と一緒だった。MITの中にも勝手に入りましたが、今と違って、インターネットないから、あまり意味はない。アカウント持ってないしね。芝生が居心地良かった。Stallman の存在は知ってましたが、会おうとは思わなかった。勿体無いね。Hewitte 先生もいたはずだが。

インターネット、ノートPCなしで、夜とか何やっていたんだろ? なんか英語の本とか論文とか読んでたんだろうな。時期的には、Foundation and Earth ですが.. トランクが小さいので、論文集とか買った本とかは、片端から郵便で送っていたはずです。

で、ボストンから飛行機でピッツバーグへ。CMUのClarke先生に会うのが目的だが、Clarke 先生に「すみません、泊まるところありますか?」と言うと、やっぱり寮を紹介してくれる。

なんだが、CMUの寮って、二部屋でバスが共有。で、なんか花とか果物が置いてある。え?! で、戻って、女子と一緒じゃまずいだろって、あせって説明するんだけど、大笑いされました。「大丈夫、大丈夫、向うは気にしてないから」って、そういう問題か?

アメリカの寮は、明るくてきれい。ロンドンの牢獄とは全然違う。

当時は、徳田先生がいて、そこに紹介されるんだけど、徳田先生ってぱっと見、日本人に見えないよね? 色黒いし。なので、英語で会話は始まるわけですが、東京だっていたら「なんだ、日本人か」で、日本語の会話に。

そこで、「今、東大にアクセス出来るよ」え〜?! で、login prompt がでるんだが、パスワードが思い出せない。数カ月外に出てたので忘れてる。その時は入れませんでした。返すがえすも残念です。帰ってからは思い出せました。たぶん、X.25 だったんじゃないかな。学内のネットワークは既にあったってことだよね。でも、日本国内にはlogin 出来るような インターネットはなかった。N1 は、メインフレームのみだし。

CMUのそばには、インド料理屋さんがあり(たぶん、もうないです Star of India とかなんとか)、そこで「Curry Rise」を発見。それを注文するんだけど「これは、ライスの上にカレーが乗っているんだが、それで良いのか?」としつこく聞かれる。一体なんなんだ? でも、うまかったです。アメリカでの食事は、ここまで電車か飛行機の中、あるいは大学の学食ばかりだった。

で、次は、NYからサンフランシスコなはずだ... なんだが歯の調子がどんどん...

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