時代遅れの原因は、聖書/経典にあると思う。昔、聖書の翻訳の信頼性に突っ込んだことがあるんだけど、ほげほげだから大丈夫ってな反論ばかりで、そうじゃなくて「間違っている」ことを前提にすべきだろ。それがセキュリティってものです。
これだけ科学が進んでしまうと、それを無視するような宗教を信じろと言われても、まず、無理筋。実際、不便だし。たとえオールマイティな神がいると仮定しても、現実の人間は物理法則や数学を越えられないんだから、それを無視しろと言われてもなぁ。と思うと、キリスト教がほとんど落ちてしまう。そもそも人格神自体が矛盾した概念で中でもぼろぼろにもめているぐらいなんだからキリスト教はだめでしょう。聖書を捨てることが出来れば科学技術と両立できる可能性はあるだろうけど、聖書がある限り進歩の可能性はゼロだ。
でも、社会的にキリスト教を押しつけられちゃうところも多いわけで、その人達がおかしくなるのは仕方がないと思う。公理が矛盾していれば、すべての命題は真だから、何やっても良いという倫理感を持つのは論理的帰結だし。殉教とかテロとかは、そういうものだ。やっぱり、迷惑だよ...
仏教は、もともと個人の「わかった」という思い付きだったりするので、まだ、なんとかなる余地がある。
理論科学、実験科学でも、自然自体の「すごさ」の体験はいくらでもある。それは、宗教的体験であって、科学と両立する宗教があるとしたら、その基礎になるものだよ。もととも、文化や宗教は、結局、個人が自分で受け入れるものであって、極めて個人的な体験に過ぎない。だったら、普遍的な体験を基本にするべきだ。般若心経は、そういう普遍的な体験の記述だというのが僕の理解です。「部分を積み重ねても、全体にはならない」という発見だよね。
宗教は、もっとはっきり「どの程度、御利益(ごりやく)があるのか」を問題にするべきだと思う。天国には、それだけの価値と信頼性があるかってことだな。無限の利益をちらつかせて説得するなら、それに確率をかけて期待値にして欲しいです。本来それは現世的な御利益のはず。
一方で、科学の方でも解けない問題は結構あって「とりあえず信じて頑張ろう」みたいなものも一杯ある。P!=NPは、それを信じないと暗号屋さんはやってられないだろうし、ZFCの無矛盾性とかは、おそらくはすべての数学者がお祈りしていることでしょう。「矛盾があっても、少しの修正ですみますように...」みたいなお祈りだったりするが。宗教を必要としているのは科学の方かも...
No comments:
Post a Comment