いずれにせよ、サンタがプレゼント運んで来るなんて、まったく信じてませんでした。覚えてない頃はわかりませんが。祖母に欲しいものを言うというプロトコルだったようです。今から考えると、かなりのお金持ちだったので、もっと、おねだりしても良かったと思う。「マイコン作るんで、10万円ください」みたいな。早く死んでしまったのが残念です。
聖書は一応読んでおくものだろうと思って、旧約、新約とも読んだ(はずだ)けど、もう覚えてないです。仏教書と違って、聖書自体には真理とか発見とかがないので、小説とか講談に近いものだよね。歴史書に近いんだから、別に誤ちがあると思ってもばちは当たらないと思うんだが... 古事記とか日本書紀とかも、結構、面白い。読んだのは大学に入ってからだが、もっと前に読んでいれば、古文の成績は、もう少し良かっただろうと思います。「結局は日本語なんだから読んでいればわかるようになる」という教えでした。
新しい宗教を作る時には、聖書作りから始めるらしい。モルモン書とかになると、さすがに出典が怪しすぎると思うが、怪しくなければ奇跡じゃないから、仕方がない。般若心経とかは、はっきり人間が作ったものなので、その点はわかりやすいね。
もう少し、人間の心理や社会の性質に適した「信じると多くの人が幸せになれる(人工的な)宗教教義」ってのがあっても良いとは思うが、一般意味論、S.I.ハヤカワ(これを入れるのは変か?)、サイエントロジー、幸福の科学とか、微妙に違うかな。ハイデッガーは、哲学よりは宗教に近いけど、ナチスに利用されたというイメージがあるのは残念。でも、ハイデッガーの「存在と時間」は、まだ、読んでないです。そろそろ読んでもいいか?
そんなわけなんで、もう少しまともな宗教に出会っていたら、それなりにはまっていかも。でも、自分が小中学生の時に考えたこと、あるいはエーリッヒ・フロムの本の方がましだと思っていたようです。特に「現代科学との共存性」「その教義を推し進めた時に、社会全体はどうなるのか?」ってあたりで破綻している宗教が多いと思う。科学と両立しないんじゃ生活が不便すぎる。まぁ、破滅を目指す宗教教義はあり得るとは思うけど、それをなぜ信じるべきかっていうと疑問ですね。宗教は自分で受け入れるものだとして。
思い返してみると、フロムとか般若心経あたりが僕に取っては読み返すべき聖書になった感じか。クワインやクーン、ポパーは、哲学と言っても技術的な哲学という側面があって、宗教にはなり得ないんだよな。フロムは、キリスト教がベースなので、宗教っぽいのは当然ですけど。
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