Thursday, 2 October 2008

とんでも

fj でも、いわゆる「とんでも」の人は多い。たぶん、僕もその一人だと思われているでしょう。ピタゴラスの定理は証明できないとか、4色問題を再帰的な手法で解くとか、量子力学の解釈の話とか、相対性理論は間違っているとか、まぁ、いろいろ。

どうせ、文字の世界に閉じていて実験の話なんてほとんど出て来ない。文字の世界で何が出来るかってのは、記号論理学の世界でいろいろ議論されてます。ラッセルの記述の理論から始まって、ゲーデルのモデル論で完成するわけだけど。記述する文字列と、文字列が指している対象(モデル)を更に文字列で表すってのは、画期的。そこで話が閉じれば完全性が成り立って、閉じないと不完全性になるってのもわかりやすい。

証明された定理を蓄積していけば完全な数学が出来ると考えたのがヒルベルトだけど、それは出来ないってのを示したのがゲーデル。

http://science.slashdot.org/science/08/09/30/2122205.shtml
a math wiki which only allows true theorems to be added! Based on Isabelle

とか言うのもあるらしい。定理証明系は普通の人には難しすぎるけど。

もともと科学や数学は証明できない命題がいくつかあって、それを公理として「正しい」と仮定して、そこから複雑なものを導出すると言う仕組みになっている。実験結果も、そういう仮定(再現する命題という仮定)なわけ。

どれを正しいとするかには自由度があり、科学者はその当たりを争っていることが多い。で、基本的な仮定の部分が違うと「とんでも」と呼ぶというわけだ。

じゃぁ、「とんでも」だったら価値がないかって言うと、僕はそうは思わない。SFは、そういうものだし。導出の仮定(証明手順)そのものにも興味はあるんだから、仮定と結果が、一般的な「科学者の間の流行」と違っていたって別に問題ありません。

人のことを「とんでも」と呼ぶ時に、その流行の言葉を羅列するのは「自分は、正しい方の集団(scientific group)に属しているんだ」ってのを示すためなんだけど、まぁ、暴力団の脅し文句とそれほどは変わらない。「吾は極東関口一家のもんや」みたいな感じか? 論文では、citation で、それをやるわけなんだけど。

その言葉の短く適切に説明できるとかっこ良い。教育的だし。そういうのやる人には、それが出来るかどうかを質問すると良い。理解しているなら、ちゃんと説明出来るはずです。もちろん、極めて複雑な概念もあるんだけど、言葉で説明できないはずはない。

それよりは、「とんでも」理論の内部矛盾をつく方が効果的。でも、例えば実験でニュートン力学と矛盾した結果が出たから「ニュートン力学は間違ってる!」ってなるかっていうと、そうはならない。質量に補正項をいれるとかして相対論を作るだけ。なので、「とんでも」の内部矛盾をついても「間違ってました「とはなりません。それに耐えて十分に精密になれば、もはや「とんでも」でなくなってしまうので、手助けしているとも言えるし。

SFとおんなじなので楽しめば良いと思うんだが、自分が「正統」側にいると思う人ほど追求するね。面白いと言えば面白いです。

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