Friday 10 March 2006

信じること。宗教と科学



宗教を信じるんだったら、ちゃんと「何を信じるべきか」を自分で選択しないとだめだよね。僕が信じている宗教は、きっと、デカルトの「方法序説」だろう。中学生で系統的な読書を始めて、最初に選んだ本みたい。何故、それを選んだのかは、今となっては思い出せない。百科辞典かも知れない。ただ、中学一年には難しすぎたかも。もっと、小学生向きな「方法序説」とか「般若心経」とかないのかな?

科学をやっている人は、割りと原始的な宗教観を持っていて、科学は科学、宗教は宗教って分けて考えてる人も多い。科学の信仰の中心は、実験の再現性にあるわけだが、量子力学の出現で、その当たりも結構、複雑になってしまった。確率的にしか予測できないものの再現性ってなんだよ? 結局は、再現すると信じているってことの程度問題だとも言える。 数学でも、記号で扱えて、無矛盾性を確信できる範囲はかなり限られている。それを越えた部分は「無矛盾だ」あるいは「これこれこういう無限のモデルが存在する」ってのを信じるしかない。

そのあたりを後ろめたく避けて通るのも良いが、積極的に「「信じる」ってのは必要だ」と肯定した方が良いと思う。「大抵の人は交通法規を守る」てのを信じていると、実社会的に便利でしょ?

宗教がそういう「信じる必要があるもの」を勝手に発明して、どんどん世の中を複雑にするのは勝手だが、「何を信じるのか」ってのは、自分で判断するべき。なんだが、自分で判断を捨てて「とにかく信じる」ってのは、ある意味、楽なんだよね。

イスラム自爆戦士を作るのはある意味簡単で、その自分の判断を捨てさせて、とにかく信じさせれば良い。周りに何人かそういう風に信じていて幸せそうなのを配置すれば、染まるのは簡単。そういうシステムはいろいろある。鼠講なんかも、そういう手法使うし。でも、それは間違っている気がする。

こういう「自分が信じるものを選択する」という視点から、多様性を持ちつつ、全体的な整合性もあり、人類全体の福祉に貢献するような、現代的な宗教(または、科学)ってのがあり得ると思ってます。残念ながら、それは統一宗教見たいなものにはならないだろうけど。いろいろな信仰の間のメタプロトコル見たいなものかな。

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