Monday, 7 November 2005
お金と市場の役割
大学生の頃は教養として経済哲学草稿、資本論ぐらいは読みました。資本論は一週間で読んで死にそうになった記憶があるが :-p 高校生の頃、読んでいた社会科学書の延長でもあるしね。今でも資本論の最初の一巻、経済哲学草稿ぐらいは読めよとか思うね。一方で大学では香西泰先生が講義やっていたりしたのでマクロ経済とかも少し勉強しました。IS曲線とかをラグランジュの未定係数法で解いたりする奴だな。
こんなことやっていると、まぁ、お金ってのが単なるコミュニケーションの単語でしかないとか思うようになるわけだな。資本論の最初は商品の物神化としての貨幣の議論だし、経哲草稿は、労働した結果ってどうなるのかってな話だし。
つまり市場ではお金と言う単語を通して「何か」を調整しているわけ。まぁ、戦争みたいに死んだ人の数で調整するよりかましだが、既に言葉を持っている人類にしては御粗末な手法な気もする。でも、 アローの逆理とかを知ってしまうと多数決にもとづく意志決定の恣意的操作を避けられないこともわかってしまう。話合いで決めるってのは虚しい。くだらんことが多数決で通るってのは誰しもが経験していることだから実感にもあってるしね。
だったら、市場原理の方が議会制民主主義よりかは少しはましだろう。
だが、そこにお金が結び付いて、また、それが物の価値に直接結び付いているとかナイーブに考えている人達が入って来るのは割りと許せないです。まぁ、ある程度、お金を稼いでしまえば、あまり関係なくなるのかも知れないが。
お金ではない、もう少し多様性のある尺度を使って市場原理を展開するべきだと思うね。それは、おそらくは、エントロピーに関連した尺度であろうと思うけど、まぁ、良くはわからん。例えばオリコンのチャート、テレビの視聴率とかは、そういうものなんでしょう。でも、既にそれが神格化されて、また、おかしなことになってる。
とはいえ、まぁ、どうでもいいと思わないでもないです。調整すべきなのは、もっと別なところな気がするから。
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